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近鉄バス百科 近鉄グループニュース
近鉄本社社長の変遷
歴代近鉄社長
大軌(大阪電気軌道)〜近鉄(近畿日本鉄道)の社長の名前を全部言えるかな?てなわけではないのですが、一応このように代替わりしてきたということを紹介してみます。
(本文中敬称略、参考:近鉄社史、各種人名辞典など)
初代:廣岡恵三(ひろおか けいぞう)
在任:1910(明治43)年9月16日〜1912(大正元)年12月15日
1876(明治9)年兵庫県生まれ。大阪電気軌道(設立時・奈良軌道)の創立委員長であった。三井銀行に勤務後、養父・廣岡信五郎の跡をついで大同生命保険会社の社長に就任。他に加島銀行頭取。もともと大阪〜奈良間電気鉄道の計画は数年前に3派が特許(軌道の場合は免許と言わず、特許という)を申請した為、この3派を大阪府・奈良県の指導などによって統合、1907(明治40)年に「奈良電気鉄道」として特許を得たが、経済の混迷などで会社の正式な設立は10年までずれ込んだと言われる。
廣岡は設立総会によって、社長に就任したが、建設資金の調達などで苦しい経営を迫られ、結局2年3ヶ月の短さで辞任するに至った。(就任時34歳)
2代:岩下清周(いわした きよちか)
在任:1913(大正2)年1月18日〜1914(大正3)年11月2日
1857(安政4)年5月28日信濃国(現長野県)・松代生まれ。名は「せいしゅう」と呼ぶこともある。創立時の取締役の一人で、北浜銀行の頭取、元三井銀行大阪支店長。1908(明治41)年に衆議院議員。1ヶ月ほど空席だった社長に就任する。生駒トンネル建設を推進したのも彼だった。任期中の1914年4月に上本町〜奈良を開通させた。
工業立国論者で、大軌のほか阪神や、阪急の前身・箕面有馬電気軌道への出資もしていたことは知られる(小林一三ももとは三井銀行勤務)。しかし、北浜銀行が経営破たんを来たし社長を辞任した。なお、設立者の一人で専務だった七里清介も同日取締役を辞任した。辞任の翌年、北浜銀行の破綻に関して背任容疑で起訴され、有罪判決。聖公会の信徒で、のちに不二聖心女子学院の温情舎小学校の設立に関与。1928(昭和3)年3月19日没。(就任時53歳)
3代:大槻龍治(おおつき りゅうじ)
在任:1915(大正4)年8月6日〜1927(昭和2)年3月10日
岩下辞任のあと、半年以上社長空席となったが、大阪瓦斯社長・片岡直輝の紹介によって1915(大正4)年8月5日に取締役に就任、翌6日に社長になった。なお、片岡も同時に相談役に就任した。
農商務省の官僚から、京都市助役、大阪税関長などを歴任。開業後経営の苦しかった大軌の債務の整理を進めた。その後第一次世界大戦の好景気により、路線網の拡大にも努めた。
1926(大正15)年9月、上本町大軌ビル完成式典の最中に倒れ、療養生活へ。翌27年3月辞任、同年6月に死去。
4代:金森又一郎(かなもり またいちろう)
在任:1927(昭和2)年3月31日〜1937(昭和12)年2月9日
大軌創立者の一人で、もと大阪市議の七里清介や大林組の大林芳五郎らとともに大阪〜奈良間の建設を推進する一派にいた人物。1873(明治6)年2月3日に大阪市内に生まれ、病弱だったことや家庭の事情から小学校もろくに通えなかったが、大阪府庁勤務の傍ら夜学に通った。その勤勉さを七里に認められ、彼が経営する海運会社に勤務ののち、電気工事会社を設立した。
大軌設立時から取締役支配人として、。社長が不在のことがあった中で経営の最前線に立った。大軌の経営は当初思わしくなく、生駒の宝山寺に賽銭を借りに行ったという話は有名である。1919(大正8)年に専務となり、27年に大槻の社長辞任に伴い、ようやく社長となった。
就任半年後の27年9月には参宮急行電鉄(参急)を設立、社長を兼任。30年同社は伊勢進出を達成。36年伊勢電気鉄道を吸収。1937年2月9日社長のまま64歳で死去。のちに会長となる金森乾次は二男である。(就任時54歳)
5代:種田虎雄(おいた とらお)
在任:1937(昭和12)年2月10日〜1947(昭和22)年4月25日
1884(明治17)年4月15日生まれ、東京帝大卒。元鉄道省運輸局長で、次官候補であったが政争に巻き込まれる形で辞任、金森又一郎の招聘によって1927(昭和2)年10月に専務取締役として就任。37年に金森が死去したのを受けて、社長に就任した。ほかに貴族院議員なども歴任。
官僚出身であり、戦時体制下において、系列を含めた運輸事業の統合を推し進めた。41(昭和16)年に大軌・参急の合併により関西急行鉄道とし、43(昭和18)年には大阪鉄道を吸収した。また、1944(昭和19)年6月1日に、戦時統合によって南海鉄道と合併して近畿日本鉄道を設立したが、引き続き社長を務めた。
1947年4月公職追放によって社長を退き、5日後には取締役も辞任した。翌年9月5日死去。
6代:村上義一(むらかみ ぎいち)
在任:1947(昭和22)年4月25日〜1951(昭和26)年12月24日
1883(明治18)年11月10日滋賀県生まれ、東京帝大卒。鉄道院の官僚から、1930(昭和5)年満鉄理事、40(昭和15)年に日本通運社長。46(昭和21)年貴族院(→参議院)議員および幣原喜重郎内閣の鉄道大臣。国鉄総裁候補にもなったほか、1951(昭和26)年第三次吉田内閣で運輸大臣。
種田の辞任に際し、迎え入れられた。この時には7代社長の佐伯勇や後に副社長となる玉置良之助など経営陣の刷新が行われており、47年3月15日に取締役就任、4月25日から社長となった。
政治活動の関係で、全面的に経営に関わることはできず、また無報酬での社長ということで、実際の経営指揮は佐伯と玉置の両専務が行った。
社長を佐伯に譲ったあと、間もなく取締役を退き、運輸大臣就任。1952(昭和27)年11月から相談役として復帰し、74(昭和49)年1月20日に死去するまでその任にあった。(就任時63歳、退任時69歳)
7代:佐伯 勇(さえき いさむ)
在任:1951(昭和26)年12月25日〜1973(昭和48)年5月25日
1903(明治36)年3月25日愛媛県丹原村(現在の西条市)生まれ。1927(昭和2)年大軌入社。近鉄では初めて一般の社員からの昇進で社長になった人物。東京帝大卒のエリートであったこともあって、4代社長金森又一郎は入社させることを最初は渋っていたという。入社後、駅や車掌など現場を経て、本社に移り5代社長種田虎雄の秘書や総務部長などを歴任。
1947(昭和22)年3月、公職追放による首脳陣の一新にともない、6代社長村上義一らともに取締役就任、4月25日から専務。実質的な責任者として、社内外の拡大を推し進めた。49(昭和24)年に企業経営者としては戦後初となる渡米、ノースウエスト航空との代理店契約。また、プロ野球近鉄パールス(のち大阪近鉄バファローズ、2004年消滅)を設立し、オーナー就任。
1951年12月に社長就任し、名実共に近鉄の最高責任者となった。以後、高性能電車、2階建て車両「ビスタカー」の導入、名古屋線の改軌、奈良電鉄などの吸収により、近鉄を私鉄最大手へと押し上げた。また、百貨店、不動産などの兼業部門も拡充させるなど、近鉄中興の祖と称された。財界活動も行い、経団連副会長、日商副会頭、大阪商工会議所会頭(1971〜81年)の任にあったほか、日野ヂーゼル工業(現:日野自動車)、朝日放送、関西電力、日本航空、全日空、KDD(現:KDDI)などの役員や顧問もつとめた。清元や浄瑠璃が趣味だったことから、文楽協会の会長もつとめ、大阪・日本橋に国立文楽劇場を誘致した。
21年半の社長ののち、会長に就任、以後も近鉄の最高経営者として実権をもちつづけ、1987(昭和62)年までその職にあった。会長を上山善紀に譲るものの、代表権を持った取締役相談役・名誉会長に。1989(平成元)年10月5日、86歳で死去。勲一等瑞宝章、野球体育博物館特別表彰など。私邸は増改築の上、近鉄が出資する財団が松伯美術館として1994(平成6)年にオープン。また、出身地の愛媛県丹原町(04年11月より西条市)には遺品などを展示する佐伯記念館があり、育英基金も設けられている。(就任時48歳、退任時70歳)
8代:今里英三(いまざと えいぞう)
在任:1973(昭和48)年5月25日〜1977(昭和52)年6月22日
佐伯の後を受けて社長に就任。1905(明治38)年8月21日生まれ、1930(昭和5)年慶大卒、入社。近鉄では珍しい慶応出身者。佐伯と2歳違いであったことから役員になったのは意外に古く、1958(昭和33)年に取締役経理局長、60(昭和35)年常務、65(昭和40)年専務、71(昭和46)年副社長と順に昇進した。年齢が高くなってからの就任だったためか在任は2期4年と短く、また佐伯会長の影響が大きかったこともあって、この後の富和宗一とともに、地味であったといえる。社長退任後は取締役相談役、81(昭和56)年に取締役を退き、相談役として85(昭和60)年8月までつとめた。勲二等瑞宝章。なお、1947年に旧南海鉄道を分離する際に、高野山電気鉄道(ケーブルカー)を受け皿にする案を出したのも今里といわれる。
2007(平成19)年8月20日に101歳で死去(次の日が102歳の誕生日になるはずだった)。
9代:富和宗一(とみわ むねかず)
在任:1977(昭和52)年6月22日〜1981(昭和56)年6月22日
今里の後の社長。やはり地味な存在だった。1910(明治43)年生まれ、1934(昭和9)年京都帝大卒、入社。51(昭和26)年労務部長、60(昭和35)年開発局長、65(昭和40)年5月に取締役勤労局長、68(昭和43)年11月に常務、71(昭和46)年に専務、先代の今里社長任期中は副社長であった。任期中は低成長期でもあり、社内の変化は乏しかった。社長退任後は取締役相談役、83(昭和58)年に取締役を退任、90(平成2)年3月まで相談役だった。藍緩褒章。1991年2月5日に死去。
10代:上山善紀(うえやま よしのり)
在任:1981(昭和56)年6月22日〜1987(昭和62)年6月26日
1914(大正3)年9月21日、新潟県西蒲原郡で西本願寺系の住職の孫として生まれるが、大阪で育つ。日魯漁業(現:ニチロ)を経て、1945(昭和20)年6月に近鉄入社。庶務課、運輸課から広報部長、業務局長を歴任。1968(昭和43)年5月に取締役。72(昭和47)年に常務、74(昭和49)年に専務。76(昭和51)年に副社長になった。81年に社長に就任、任期中は鉄道部門では省エネ車の導入や東大阪線の開業を、関連事業では上本町、阿部野橋のターミナル整備を進めた。87年に会長に就任し、佐伯勇前会長に代わるグループのトップとなる。89(平成元)年佐伯の死去により、近鉄バファローズオーナー(81年から代行)。財界活動も行ったほか、佐伯から日野自工、朝日放送などの役員も引き継いだ。1994(平成6)年6月取締役相談役。97(平成9)年取締役退任、98(平成10)年バファローズオーナーを退任。勲一等瑞宝章。現在も文楽協会理事長を務める。(就任時66歳、退任時73歳)
11代:金森茂一郎(かなもり しげいちろう)
在任:1987(昭和62)年6月26日〜1994(平成6)年6月29日
4代社長金森又一郎の孫、元会長金森乾次の長男。弟・順次郎は大阪大学元学長。近鉄は地縁・血縁を大事にする社風があり、地元出身であったり、父や祖父が近鉄の社員・役員だった人も多い。
1922(大正11)年8月24日生まれ。1944(昭和19)年東京帝大法卒、45(昭和20)年京阪神急行電鉄(現;阪急電鉄)入社、55(昭和30)年に近鉄に移る。62年(昭和37)年総務部長、71(昭和46)年2月勤労局長。73(昭和48)年5月に取締役、75(昭和50)年12月常務、79(昭和54)年6月専務、81(昭和56)年6月に10代社長上山善紀の就任に伴い、副社長。1987年、上山から社長を譲り受けた。丁度バブル経済期であった時期に社長を務めているが、任期中は名阪特急アーバンライナーの運転開始、阿部野橋ターミナルの完成、志摩スペイン村のオープンと志摩線の複線化などその景気に乗ったと言えよう。1994(平成6)年6月に会長、在大阪スペイン名誉領事、民鉄協会長(〜97年)。98(平成10)年にバファローズオーナー。99(平成11)年に取締役相談役に退いた。2001(平成13)年、バファローズオーナー退任。他に日経連副会長、関経連会長などを歴任。2004(平成16)年10月19日、82歳で死去。(就任時64歳、退任時71歳)
12代:田代 和(たしろ わ)
在任:1994(平成6)年6月29日〜1999(平成11)年6月29日
1927(昭和2)年1月6日大分生まれ。1949(昭和24)年東大電気工学科卒、入社。1967(昭和42)年調査室長、78(昭和53)年6月取締役。81(昭和56)年6月常務、85(昭和60)年6月専務。1989(平成元)年6月、安部和寿(のち近畿日本ツーリスト社長)ら3人とともに副社長、1994年近鉄のバブル期の拡大が一段落したとして、金森茂一郎と交代し社長となった。96(平成8)年大阪商工会議所副会頭。99年、大阪商工会議所会頭に就任したため、任期途中で会長に。2001(平成13)年、大阪近鉄バファローズオーナー就任。関西財界の主要メンバーとして活動した。03(平成15)年6月取締役相談役。なお、大阪商工会議所は03年4月に大阪工業会を吸収するが、同会長職は2004年3月まで務めた。なお、バファローズは田代が最後のオーナーとなった。(就任67歳、退任72歳)
13代:辻井昭雄(つじい あきお)
在任:1999(平成11)年6月29日〜2003(平成15)年6月27日
1932(昭和7)年12月19日大阪生まれ、1956(昭和31)年京大経卒、入社、1976(昭和51)年労務部長、86(昭和61)年勤労局長。1989(平成元)年6月取締役総務局長、91(平成3)年常務、93(平成5)年専務、94(平成6)年副社長に。田代前社長の財界活動に伴い社長就任。グループ各社の経営悪化が進んでいたことから、ホテルの再編をはじめ、志摩スペイン村の経営再建、百貨店や不動産などの整理統合を行った。また本社では駅業務の分社化を決めたほか、利用者の減少に合わせて鉄道ダイヤの減量化を進めた。しかし、経営的には縮小均衡へ進み、任期中4年間全て赤字決算で株価も低迷し、会社のイメージはあまりプラスにならなかった。再建策に道筋がついたとして、2003(平成15)年に会長に就任。元会長上山善紀から朝日放送、日野自動車の役員を引き継いだ。趣味は絵画、特技は少林寺憲法。(就任66歳、退任70歳)
14代(現会長):山口昌紀(やまぐち まさのり)
2003(平成15)年6月27日〜2007(平成19)年6月28日
1936(昭和11)年2月11日奈良市生まれ、1958(昭和33)年京大法卒、入社。1991(平成4)年6月取締役秘書室長、93(平成5)年常務・秘書室および広報室長、97(平成9)年専務、99(平成11)年6月副社長。経営企画および流通関連の担任であるほか、財界との間も取り持っている。2003年に新社長として就任。基本的には辻井社長の路線を引き継いでいるものと思われ、就任早々、あやめ池遊園地の縮小を発表した(04年6月閉鎖)。2004年には大阪近鉄バファローズについて、オリックスブルーウェーブとの統合を発表し、世間の非難を浴び、関連して社長としての責任感の感じられない発言などで失笑も買った。歴代社長もそうだとはとはいえ、困難な時期に就任時で67歳(同時期就任の阪急電鉄社長が54歳)というのは、ロートル人事の弊害が出てきている感があった。なお、レジャー事業については2005年度に黒字化を実現、グループのスリム化も一通りやりとげている。他、朝日放送取締役(辻井元会長より引き継ぎ)なども務める。私生活では神職の資格も持つ。(就任67歳、退任71歳)
15代(現社長):小林哲也(こばやし てつや)
2007(平成19)年6月28日〜
1943年(昭和18年)11月27日大阪府生まれ、1968(昭和43)年早大政治経済学部卒、入社。営業部門を経て2001(平成13)年6月取締役営業推進本部副本部長兼伊勢志摩支社長、03(平成15)年常務・レジャー部門担当。04(平成16)年に大阪近鉄バファローズ社長就任。同年6月にオリックス・ブルーウェーブとの統合を発表したが、球界の縮小再編につながるとして多くのファンの批判を浴びる事になった。結局、統合は強行したが本人は苦悩の中での実行だったとも伝えられる。論功行賞的にではあるが社長に昇進、若干の若返りが図られた。就任後は矢継ぎ早に積極策を取っており、京都駅にホテル付の駅ビルを設置する計画を発表したのに続き、阿部野橋ステーションビルを300mの超高層ビルへの建て替えなども決めた。山口社長時代に閉鎖した近鉄劇場も、新歌舞伎座を誘致することで生まれ変わらせることにしている。(就任63歳)
(最終更新:2008.12.30)
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