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近鉄バス百科 近鉄バスの概要・歴史篇2
近鉄バスの歴史・戦後篇(〜1950年代)
復興のはじまり
戦後暫くは、燃料不足が大きく休止路線も相変わらずの状態でした。1946(昭和21)年暮れからはガソリンの配給が再開され、すこしずつ休止路線の再開も行われていきます。
しかし、お客は次第に多くなっていく一方で、車両や乗務員は不足し、より収容力を上げるため1947(昭和22)年には、日野産業(現:日野自動車)が発売したトレーラーバスを導入します。これは、トラクターヘッドにトレーラーの客車を繋げるもので、定員100人の収容力を誇り枚岡線や柏原線に使用します。日野にとっても戦後初の本格的バスの製造であり、これが今に至るまで近鉄バスで日野が使われることになったゆえんです。また、外装色はこの頃から、クリームに茶色のツートンカラーが採用され、1990年に消滅するまで長年にわたり親しまれることになります。
大阪市内への乗り入れ
戦前から大阪市は、「市内交通市営主義」(モンロー主義)を唱え、市内への民間交通の乗り入れを制限していました。戦前大阪市内でバスを営業していた大阪乗合自動車(青バス)も戦時統合で大阪市営に組み込まれています。
そんななか、1948(昭和23)年4月5日、柏原線が平野から阿倍野橋まで乗り入れできるようになります。追って25日からは枚岡線が布施から上本町六丁目までの乗り入れを開始します。いずれも今は無き路線ですが、これにより市外〜市内への輸送ができるようになり、バス事業は成長を遂げていきます。
さらに、1949(昭和24)年4月1日からは、阿倍野橋〜奈良を1時間半で結ぶ急行バスを、奈良交通と共同で運行開始します。
営業所も東野田、柏原、上本町に新設、布施には整備工場が設置されるなど拠点整備も行われ、1949年以降はディーゼル車の導入も本格化します。
そして、1949年11月2日から、貸切バスの営業を大阪府内で開始します。
路線の拡充
バス路線は、大阪市内への乗り入れとともに、郊外でも拡充され、道路の整備に合わせていくつもの路線が出来ます。
大阪市内では、1953(昭和28)年8月に本町四丁目へ枚岡線・柏原線を乗り入れ。追って、内本町二丁目には民営バス各社が乗り入れる郊外バスセンターが開業、近鉄バスもここに乗り入れるようになります。もっとも、このターミナルはあまり長続きせず、1970年には廃止されています。もし、これが残っていたらOCATはここに設置されていたかもしれません。
1954(昭和29)年から1956(昭和31)年にかけては、南大阪線沿線の北野田線、大堀線、丹比線、富田林線が開業、堅上線も開業して雁多尾畑にも路線が伸びます。また、志紀(現:八尾)、枚岡の両営業所(自動車区)が開設されます。
1957(昭和32)年、上本町に観光バスセンターがオープン、9月末には奈良県でも貸切営業を開始、住道線が天満橋乗り入れを実現します。また、西信貴ケーブルカーの復活にともない、戦前にあった信貴山上の鉄道線跡を道路として整備、高安山〜信貴山門に信貴山上線を開設します。
1958(昭和33)年には、阪急バス・京阪自動車(現:京阪バス)とともに吹田八尾線を開業、大阪の南北を結ぶ幹線が作られます。
車両面では、1955(昭和30)年に全ての車がディーゼル化し、箱型のバスも登場します。箱型バスはエンジンを床下に置くことで車内の床が平らになるなどのメリットをもったタイプが使われ、観光型では天窓を設けた豪華タイプも導入されています。
生駒山自動車道・阪奈道路開業
1959年(昭和34)年、大東市寺川と奈良市を結ぶ阪奈道路が開業します(当初は有料道路)。また、同道路の生駒登山口から分岐して生駒山上へ向かう生駒山ドライブウェイ(信貴生駒スカイライン)が近鉄の直営で開業します。
これにともない、大阪本町と奈良公園や生駒山上を結ぶ直通バスの運行が開始されます。この拡充で同年末には営業キロが290.4kmになります。
参考資料:近畿日本鉄道80年のあゆみ
(最終更新:2003.8.31)
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